北栄 やさしい風のふくまち

北栄散策 歴史・文化財(1)

広々とした砂丘地に、歴史が眠る、フルーツが実る、人々の明るい声がこだまする。やさしく導くふるさとの風に乗せて、コナンと一緒に、このまちの今を発信しよう。

歴史・文化財

北栄町には、素朴な中にも重みのある歴史という先人たちの足跡と、その証しとなる数々の文化財があります。 私たちは今、夢ある未来のために、知恵と創意工夫で、たくましく今日を切り拓いてきたその人々のメッセージに耳を傾けることから始めようと思うのです。

History and Cultural Assets Hokuei Town has, in spite of its homespun ways, footprints of our predecessors’ important history and various cultural assets as evidence. Now, we have begun to think of our beginning by listening to the message of those people who boldly opened the way to today with their wisdom and ingenuity for a dream-inspiring future.

역사•문화재 호쿠에이초에는 소박하면서도 유구한 역사를 형성하여 온 선인들의 발자취와 이를 말해주는 수많은 문화재가 남아 있습니다. 이제 우리들은 꿈이 있는 미래를 위하여, 풍부한 지혜와 독창적인 생각으로 생동감 넘치게 오늘날을 개척해 온 옛 선인들의 메시지에 귀를 기울이는 것부터 시작하려고 합니다.

武信潤太郎の邸宅 [昭和54年撮影]
武信潤太郎の邸宅 [昭和54年撮影] ありし日の台場道 [昭和51年撮影]
ありし日の台場道 [昭和51年撮影]

由良台場 MAP A-4
島原の乱以後、幕府は各藩に命じていっそう海防を厳重にするように通達した。鳥取藩としても、東西40里に及ぶ海岸防備をいかに施策すべきかが急迫していた上、由良が藩倉を抱える要所でもあることから鳥取藩主・池田慶徳は海防上、砲台場築造の必要を認め、その建設を砲術家・武宮丹治に命じた。丹治は1863年(文久3)反射炉での大砲製造が軌道に乗ってきた瀬戸村の武信左五右衛門、武信潤太郎に製造した大砲を台場を築造し備え付けられないかとの相談をかけ、その年の6月に着工し翌年2月に完成した。 台場の築造にあたり、総指揮者の武信潤太郎はフランス式の築城法をもとに自ら設計し、由良藩倉21カ部落の農民を集め指導監督して建設した。この時、台場築造を陣頭指揮したのが由良の中庄屋であった斎尾柳左衛門であった。台場の土塁の基礎は東隣の畑の砂を積み上げてつくり、土はかじ山(自動車運転免許試験場)付近と清水山(元大栄中グラウンド北隅)付近から運んだといわれる。完成までに要した農民たちの人役は7万5千人余り、費用の大部分は豪農などの献金と百姓の奉仕であった。


台場から大山を望む [昭和25年撮影]

由良台場は6角形で高さ10m、東西125m、南北83m、周囲約400m、面積約11,913㎡。六尾の反射炉で鋳造された大砲を7門配置し、この守備には農民を訓練した農兵があたった。明治維新後大砲は廃棄改鋳され、台場は1925年(大正14)8月に由良町に払い下げられ、1988年(昭和63)には、規模が大きく形が整っていること、原型を完全にとどめている点などから、県内はもちろん全国的にも貴重な物と認められ、国の史跡に指定された。 周囲は「お台場公園」として整備され、人々の憩いの場となっている。