南側にあった由良藩倉:由良小学校として使用された |
貢米を運んだ舟 |
由良藩倉 MAP A-3
1719年(享保4)以前の年貢米は、現琴浦町の逢束の藩倉に納入していたが、交通が不便なことから藩倉の新設を願い出た。藩主池田宗泰は水利と地の利を考え、由良に藩倉を創建することとし、1719年の6月に着工して同年8月に竣工。その年から納入が始まった。
由良藩倉は東側に由良川をひかえ、河口まで400m余りで水利の便の良い場所にあり、規模は鳥取、米子、橋津に次いで第4番目の大きさであった。
1676年(延宝4)頃より藩は参勤交代、海岸防備などの費用を捻出するため、御廻米と称して大量の米を大坂(大阪)へ運送させた。当時の廻漕業は、20艘余りの川舟で裏門の米だし場より海岸まで米を運搬し、更にイワ船に乗せ変えて海岸より御手船まで運び出した。この藩米を御手船で京阪神地方へ積出する際に、航海の無事と息災を祈願して唄われたのが現在も10月の高江神社の秋の大祭で披露される「だんじり唄」である。
船着場記念碑
由良は藩倉を核に商業地、宿場町として急速に開発が進み、現在の由良宿の原形が形成されていった。
藩倉は、1872年(明治4)、廃藩置県が行われ官倉として鳥取県の管理に帰し、1874年(明治6)に地租改正条例が公布され同8年に実施されると鳥取県から払い下げを受け、由良農業倉庫として米の保管倉庫へ役目を変えていった。
六尾反射炉跡 MAP B-4
六尾の反射炉は従来鋳造されていた青銅砲の材料が不足したために、鋳鉄製の大砲を造る目的で建設された。反射炉とは、高炉やたたらで造られた銑鉄を再溶解するための溶解炉である。
郷士を任ぜられた瀬戸部落の大庄屋、武信佐五右衛門は息子の久二郎に武信潤太郎を伴わせて諸国を歴遊させ砲術を学ばせ、1857年(安政4)4月着工し、同年9月には2基が完成し稼動を始めた。ここで生産された砲は、1857年9月から1861年(文久元)までに藩内で32門、他藩からの注文を併せて45門から50門あったと推定される。
六尾反射炉は数々の名砲を生み、当時の日本国土警備のために計り知れない活躍をしたが、攘夷思潮の退潮現象と共にその短い役割を終えた。
現在は、反射炉北側の土塁が残るのみである。
砂丘開拓史
東西約12㎞、南北約1.2㎞の広大な砂丘地は、季節風が猛威をふるって砂を飛ばすだけでなく、生活に必要な水を欠く不毛の地でもあり、周辺の人々の生活を脅かしてきた。その長きに亘る砂丘開拓の歴史は、町の発展に大きな影響を及ぼしてきたといえる。
本格的な砂丘開拓は、江戸時代後期の1730~1840年(享保から天保期)頃に始まる。当時は畑(浜畑)の灌漑と飛砂への対策が重要だった。
灌漑用水は砂地を掘り起こした浜井戸から湧き出た地下水を利用した。浜井戸は小池のようなもので、約500カ所あったといわれている。灌漑作業は肩に担いだまま底の穴を開閉できる専用の水桶を使い、未明から夕暮れ遅くまで走りながら灌水したといわれ、主に女性が担当していたこととその過酷さから「嫁殺し」とまでいわれていた。
一方、絶えず襲ってくる砂嵐には松を植樹したり、竹垣を作って防いでいた。植林は集落保護のために古くから行われ、鳥取藩でも海岸線に沿って防風・防砂林を植栽している。
江戸末期になると、鳥取藩は参勤交代の費用や江戸で暮らす藩主の生活費がかさみ、米を担保として商人から借金をしていたため、藩では新田の開発を奨励し、財政力を強めようと考えた。そうした中で願い出されたのが、桝田新蔵らが計画した砂丘開発事業だった。
桝田新蔵 |
灌漑作業に使われた水桶 |
桝田新蔵は砂山を崩して水路を通すことで海岸近くの低地を水田にすることを思いつき、さらに開拓可能な砂丘地を300町歩と割り出し、工事費を自ら負担することで藩から開拓の許可を得る。1858年(安政5)、北条用水に分水口を設け、天神川沿いに約8㎞の水路を掘ることから開拓は始まった。
土地の高低差は孟宗竹を割り、それに水を張って高低を見つける方法(水盛り工法)や、砂地の水路には芝などを敷き詰め、そこに泥水を流して土を運び砂の目を塞ぐ方法(流水客土工法)によって、水路の水持ちを良くするなどの工夫を凝らした。これによって用水路は完成したが、分水口下流地域の水不足を引き起こしてしまう。そのため今津堰を修理し天神川本流から水を引くことを考えるが、資金が底をついたため藩に願い出、藩は新蔵の功績を認め直営工事として開拓を進めることとなる。
1861年(文久元)、新蔵は一家で開拓地に移住し、翌年には約100㎏の米を収穫。1862年(文久2)には開拓地に移住する21戸のために藩から宅地や家の建築費、農具などの支給を受け、西新田という新しい集落が誕生した。
明治時代、開拓されていない砂丘地の多くは官有地として残されたままだったが、1907年(明治40)頃になると、払い下げを受けて開拓する人も出てきた。1908年(明治41)には90余名が開拓組合を結成し、下北条砂丘の開拓に着手している。
大正時代後半では開拓組合を結成し、若干規模の大きな開拓が行われるようになる。松神地域では大正末から昭和にかけて、通称「新屋道」を切り下げる大工事、下神の東部砂丘でも整地作業が行われるなど、砂丘の部分的な改良工事が各地で実施されるようになった。
明治から大正時代には長芋の茎にできる「むかご」を埼玉県から導入。明治末頃にはぶどう栽培が開始された。
第二次大戦後は食糧難を補うため、広大な砂丘地を近代農業に合う農地に変えることで食糧増産を図ろうとする事業が動き出す。それには安定した量の水が必要であるため、大規模な灌漑事業を実施することが決められた。1952年(昭和27)には北条砂丘土地改良区が設立され、総工費2億1千万円、5年に亘る計画が展開されることになる。途中、補助対象の拡大要求が認められるなど事業への理解が進み、1965年(昭和40)に全ての工事が完了。改良区全域での撒水が可能となった。
1967年(昭和42)からはさらに圃場整備事業が始まり、高能率化された農地が広がって行く。撒水方法もホースによるものからスプリンクラーへと切り換えられ、1980年(昭和55)には集中コントロールによるスプリンクラー撒水の自動化が開始されて、1992年(平成4)に完成し、現在のような集約度の高い農業地帯となった。